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純文学 津村記久子著「ワーカーズ・ダイジェスト」

ワーカーズ・ダイジェスト (集英社文庫)

可愛い色使いで集英社の努力が見える外観をまとっている。
しかし著者の津村記久子さんは芥川賞を「ポトスライムの船」で受賞している。
つまり純文学系の小説家である。



自分は今まで純文学とは芥川賞系であり、芥川賞とは純文学の小説の一番すごい賞という同語反復によってしか定義できていなかった。
それは純文学の作品を少ししか読んでいないから、言葉に実感をこめることができていないからという理由もあるだろう。

ちなみにWikipediaによると、純文学とは

大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。


とある。
しかしこの定義は直木賞ではなく芥川賞を受賞しそうな小説という意味なので、前のループから抜け出ることはできない。
ただしこの定義は面白いことを言っている。
つまり純文学が何かが分かれば、「娯楽性」あるいは「芸術性」が何かも分かるということだ。


二人のくたびれた佐藤さん(男女ひとりずつ)がいる。
彼らは同い年である。さらに同じ誕生日である。
彼らは互いに代理として仕事の打ち合わせで出会い、またそれぞれのくたびれる生活に戻る。
たまに誕生日が同じの佐藤さんのことを思い出したりもしながら、日々をこなしていく。

以上があらすじである。
複数視点の小説だと登場人物同士が絡むことがよくあるが、そういうことは特にない。
少し苦労をしながら月日が立つだけである。

このあらすじのどこが芸術的なのだろうか?
おそらく文学における芸術とは娯楽性と対立する概念であることからも察せられるように
いかに読者を退屈させながら魅了するかということである。
つまり文学的芸術とはストーリーではない部分にどれだけ娯楽を表現できるかという概念なのだろう。
一方で文学における娯楽とはどれだけ芸術的なストーリーを組み立てられるかということでもあるのかもしれない。

そういうことを考えたのはこの本を読んでたった四ページで魅了されたからである。
しかも最初の三ページは寝起きの主人公がやるべきときにやっておけばいいものをついやらなかったがために後悔するという意志力の弱さを見せつけるだけなのだ。
私が惹かれた文章は次の段落の最後の一文だった。

自転車に乗って駅へと向かう。せめてペダルだけは軽快に踏んでみる。郊外の住宅地を突っ切る奈加子の通勤路は、小学生の通学路と重なっていて、彼らが無軌道に進行方向を変えたり走り出したりする様に出くわすと、脳みそが腐って爆発しそうな気分になる。イメージとしては、シュールストレミングの缶が気圧の変化で破裂する感じだ。彼らを責め立ててはいけないと自分を戒めるからこそ、余計に自家中毒を起こすのだった。そのうちおかしくなって、電柱に突っ込んでしまったりするのだろう。その時は即死したい。

おそらくこの一文の衝撃はブログで語っても届かないので語らない。
(むしろこの記事を読んでくれた方はこの部分を楽しめない可能性が高いかもしれない)
純文学はストーリーでない魅力で勝負しているからこそ、始まってすぐにこのような出会いがあるのだろう。
この本を読んで私はそういうことを考えさせられた。

ここで終わるとこの本について約一行分しか書いてないので補足します。
表題作の他に、これも同じように少し淀んだ雰囲気の短編がある。
誰かを想っていることはこんなにも筒抜けなんだな、あるいはこんなにも何も書かないで想いは読者にばらせるんだなという発見があった。
両方とも(特に後者は)綺麗に巧くまとめるんだなと思ったりもした。
解説代わりに益田ミリさんのマンガ鑑賞による振り返りがあって、もう一回読みたい気持ちを起こさせる良い終わり方だと感じた。
つまりは表紙に騙されてみるのもアリだと思っているということです。


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