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通読するべき良書を紹介します
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今回感想を書こうと思っているのは宮台真司の「日本の難点」です。
しかし書くにあたって付箋をつけ過ぎてしまい、何が大事で何が大事でないのか、
よく分からくなってしまったので、丁寧に読んでみようと思います。
というのもその原因が話題が広汎であり、かつどれも知らなかったものだと思われるからです。
2つ3つに分けるか、下に付け足すかの形で更新します。
だいぶたくさん書き抜いてしまっていますが、縁あってブログをのぞかれた方は
とても良い本なのでぜひ手にとって読まれることをおすすめします。
記号について
・ 節、話題を表す
A→B Aよって、だからB
→→A 次の事実Aがある
A←B Aの理由、原因はB
「この社会」を論じるための「評価の物差し」を持つため
この本が読者に期待すること、読者に提供できると思っている価値はこれである。
「評価の物差し」とは、何が良くて何が悪いのかを決める基準のことだ。
これがなくては議論を始めることができない。
「この社会」は「底が抜けて」いる現代社会の意味である。
「底が抜けて」いるについては、はじめにの段階では未定義のように見えるので置いておく。
章立ては本のままに行こうと思う。
一章の副題は「コミュニケーション論・メディア論」。
・コミュニケーションはフラット化したか?
→フラット化≒希薄化と思っていい
→問題:「尊厳と他者(または他者性の結びつき)」
→すなわち、「他者の存在」が「自分が自分であること(の揺るぎなさ)が何に支えられているか」の答えになるか?
→現状:流動性の上昇→コミットメント(=深い関わり)の脱落(=分散によるリスク減少)
→すなわち、移動・通信の自由化により環境が流動的になった。
その変化への適応として目の前のリソースにコストを掛けないことを選ぶようになる。
・コンテンツ消費
→Q.データベース的消費またはキャラ消費(=萌え文化)とケータイ小説的消費の共通部分は?
→A.関係性の否定
→関係の履歴<事件の羅列
(cf.)少女漫画が理解できない
→「物語」起点より「関係」起点に考える方が分かりやすくなるのではないか?
→→何について考えるのに都合がいいか?
→
・マスメディア
→「場」(e.g. お茶の間、井戸端)の消滅
→コミュニケーションを支える共通前提を供給するメディアが不要になる
→マスメディアの対抗策
→ダウンサイズ化
→高収入層狙い
・社会情勢の変化とライフスタイルの変化
→郊外化=団地化(50~70)+ニュータウン化(70~現在)
→団地化=専業主婦化、ニュータウン化=コンビニ化と言い換えられる
→団地化=「地域の空洞化☓家族の内閉化」
→ニュータウン化=「家族の空洞化☓市場化&行政化」
→郊外化のプロセス:<システム>全域化による<生活世界>空洞化の日本的展開
→個人が剥き出しで<システム>に晒される
=「善意&自発性」優位から「役割&マニュアル」優位のコミュニケーションへ
→社会が包摂性を失う=家族や地域による自立的な相互扶助がない
→経済が回らなくなると個人が直撃される
→国家は「社会の自立」を支援するべき(「社会投資国家」)
→郊外化に日米関係の変質が絡む
→米国本位な要求(80s~)
→「対米従属」と「国土保全」の両立が難しくなってきた
→日本は「対米従属」(=「社会収奪国家」⇄「社会投資国家」)を選択
←輸出市場としての米国、軍事的安全保障の米国依存がその理由だった
→現在は経済的には影響力小、軍事依存のみが問題
→「軽武装・対米依存」から「重武装・対米中立」にシフトすべし
←本土決戦を避けるべきだから
・彼女がいても非モテ
→ただのセックスより愛のあるセックス
→セックスは簡単にできる(しかしコミットメント(深い関わり)はできない)
→「金の切れ目が縁の切れ目」
→男性は同性同士で助け合えない(女性はできる)
→ヴァーチャルな女の子も現実の女の子も助けてくれない(愛がないから)
→入れ替え不可能性=関係の唯一性こそが孤独死から救う
論理構造を大まかに書き抜いてみて分かったことは
まず、各節毎に関係があまりないということだ。
なんか違う話になったと思いながら読んでいたけど、やはり違う話をイチからしている。
次に「コミュニケーションのフラット化」だけはトピックセンテンスのように文章を引っ張っている。
これが全てをつなげる根本的な現象であり、続く各話題はその結果現れた現象である。
最後に、しかしながら各節の中ではその話題に付随することを、
「コミュニケーションのフラット化」に関係あるかないかにかかわらず自由に書いていると指摘できるだろう。
従って読んでいると、局所的に「なるほどその考え方は面白い」と付箋を貼っていても
大域的に何の話をしていたのかがつかみにくくなっている。
(ここまで10/23)
第二章の副題は「教育論・若者論」。
・いじめは本当に決してなくせないのか
→いじめ:人の尊厳(自由な日常的活動のベースとなっている)を回復不能まで傷つけて、以前と同じ生活を送れないようにすること(=尊厳を破壊することで自由を奪う営み)
→この定義ならある程度はなくせる
→いじめはなくならない×いじめはほとんどなくなる○
→いじめてはいけないこと:前提≠理屈がある
→「感染」:ダメなものはダメを伝える
→心底スゴイと思える人、こうなりたいという思いが理屈でなく気持ちを動かす
→人は利他的な人間の「本気」に「感染」する
→フラット化によりコミットメント(=本気で聞く)ことがなくなった
→大事なのは「場」への適応のみ
→いじめの蔓延
→かつてはいじめのレベルが上がるといじめられる側の本気度が上がりそこで止めていたが、今は本気に対する感度が低く止まらない
→別の「場」に行くという対処療法(本質的解決でない)
・「ネットいじめ」「学校裏サイト」から子供を守れるか
→→援交が親友に言えなくなる(96~)
←援交は格好悪いので親友にしか打ち明けられない
→親友だから言えない
→何でも分かってくれる:「まぶだち」滅多にいない
→打ち明けた秘密がプロフから不特定多数に晒される
→cf.)Eメールのコミュニケーションのもたらす疑心暗鬼
←故意か過失か分からない
→フラット化は疑心暗鬼を推進し、疑心暗鬼はフラット化を推進する
→ネットいじめ
→事後的な対処も事前的な抑止機能も期待できない
→ネットからの隔離という対処療法はある
→問題の本質:対面コミュニケーションがネットコミュニケーションよりも脆弱なままでいいのか
→(ニクラス・ルーマン)「安心」:おかしなことは起こらないという期待「信頼」:いろいろあっても大丈夫という期待
→対面コミュニケーションを「信頼」ベースにすべし
・モンスターペアレンツやクレーマー対策
→モンスターペアレンツとクレーマーの共通点:「全体を顧みない(=「常識」がない)理不尽さ」
←「常識」を支える共通前提とそれを支える<生活世界>を<システム>で空洞化した結果
→問題はクレーマーごときにごときに振り回される社会
→クレーマーの言うことを真に受けて聞くメカニズム
→ラウド・マイノリティ、サイレント・マジョリティ
→相手の反応に驚いている時点で負け
→共通前提に鈍感で観察する習慣がないから相手を読めてない
→フラット化により自分の持つ関係性の評価が低く、自分の周囲にいる少数の人間から承認されるだけでは不満
・モンスターペアレンツ保険は仕方ないか
→保険:リスク=行為に関わる期待外れの蓋然性
→モンスターペアレンツ保険の登場
←モンスターペアレンツとの出会いは教員の能力に関係なく起きる事故のようなもの
←まとまったニーズがあるから
←<生活世界>が空洞化したからモンスターペアレンツが出現するのも仕方ない
←クレーマーに対して示談でカタをつける程度には学校がクレーマーの要求を聞き入れてしまっている
←cf.)<生活世界>で解決できていたことが、解決できなくなって<システム>を頼るしかなくなる結果、ますます<生活世界>が脆弱になっていく(ことの一例)
→<生活世界>が空洞化した以上は<システム>を積極的に頼ることなしには、社会生活があり得なくなった
→<生活世界>を<システム>に置き換えることが間違っている以上、<生活世界>の回復や再構築こそ目指さなければならない(著者の立場)
←スゴイ人が<システム>の呼び出しボタンを押すことはないから
←「感染」が大切、ゆえに<生活世界>が失われないようにしなければならない(と思う)
→学校にだけ<生活世界>が残っていることは不可能なので、地域社会に<生活世界>を回復させる必要がある
・教育の崩壊は本当にゆとり教育の「失敗」のせいか
・ゆとり教育の失敗の理由
→親や教員が理念を理解する前にファシリテイトされた
←ゆとり教育の理念:暗記学習に使っていた時間の一部をクリエーションやコミュニケーションの能力開発に結び付くような時間に転用すること
→知識的にも価値観的にも体験学習的にもフレキシブルにしていく
→修正できない硬直性
→それをもたらす利権構造
・教科書が薄い
←学習指導要領はミニマムリクアイアメンツ
←文科省の学習指導要領を越えさせない制約(検定:日本のみ)
→持ち運ぶのでボロボロになる(外国では校内で融通)
・教育先進国は
→制度的な枠をフレキシブル
→能力別編成をやめた
→グループワーク重視
・子供に「人の死」を教えられるか
・人の死を知ることのねらい
→「正をどう組織するのか」に関心をもってほしいから
←人の死をめぐる人々のコミュニケーションを知る必要がある
→映画や小説<性愛関係の別れ<現実の死別
←失ってみないと分からない大切さ
・「無痛化」
←親族などの死との物理的隔離
←他者へのコミットメントの希薄化
・「重要な他者」
→生はむなしくないことや死は怖くないことを理解するのに必要なりソース
→自殺をやめさせる唯一の言葉「お前が死んだら自分は悲しい」
→関係の履歴がない人が言うと「嘘つけ!」で会話終了
・人の死をどう教えるか
・失ってみないと分からない
←人と人との関係が無意識のレベルに及ぶような深さを持つから
→ペットは代替案になるか?
→自然に学べないので「経験を組織する」というパターナル(温情的)な課題が生まれる
→死を教えることも死を教えないことも一つの人為的な「経験の組織化」(=するも選択せざるも選択)
←このような社会を再帰的近代と呼ぶ
→普段から「重要な他者の死に積極的に関わっていく大人の姿」を見せるしかない
→親自身が「重要な他者」たちとの関係を豊富に持っていなければならない
・早期教育は本当に有効か
→いわゆる早期教育は有効でない
←自分は受けたが有効でなかった
←大学で教えていてコミュニケーションの質の低下を感じる
←麻布学園での経験
→地アタマ
→内定をとりまくる学生
=「文科系的体育会系」or「体育会系的文科系」
←教養の世界と現実の世界を両方よく知る
→初対面でも短い時間で安心感を与えられる
→そうでない人は自分カワイさからコミュニケーションがなされる印象を与える
・子供に教えるのは「他人に親切」か「他人を見たら泥棒と思え」か
→東大の極端な成績優秀者は公共的関心を表明する
→仮説:スゴイ奴は「本当にスゴイ奴」になりたがる
→「本当にスゴイ奴」=ミメーシス(感染的模倣)を生じさせる
→ミメーシス:真似ようとして真似るのではなく、気がついたときには真似てしまう
→「衝動」(by スピノザ)
→目的をもって真似るときも目的の目的の目的......を辿れば「衝動」に辿り着く
→人は「衝動」の部分的観察に過ぎない「目的」に拘泥する本末転倒に陥りがち(byスピノザ)
→ミメーシス=「衝動」≠「目的」、「手段」
→自己完結した喜びを与える
→ミメーシスの対象になる人間は、端的な「衝動」に突き動かされている人間
←早期教育の「衝動」は子への愛
→「目的」と「手段」の系列が長く伸び過ぎる
→「衝動」が分からなくなる
→不安=セコイ奴
→真の早期教育:「スゴイ奴」になってほしいという思いの表現
・「真の早期教育」とは
→キーワードは「目から鱗」
→<世界>は知り得ないが、<世界体験>が与えられている
→自我や社会は<世界>を<世界体験>に変換する関数としてあると考えられる
←我々は<世界体験>の外には出られない
→シュタイナー:関数を決まりきったルーティーンから解放しようとした
→シュタイナー教育:感情的、感覚的に幅広い体験をさせていくことを目的
←他人が置かれている状況や、それがその人に与える影響を理解できる
→他人を幸せに(e.g.ミメーシス)できるし、他人を幸せにすることを通じて自分も幸せになれる
→「感情教育」「感情の民主化」
←自我上の目的+社会システム上の目的
←臨界年齢がある
・実践している「幼児教育」は
・妊娠六ヶ月の段階からその名前で呼びかけて、大好きな音楽をいつも聞かせていた
→おなかのなかにいるときから性格がわかる
→「胎内音」
←最初から<世界>を肯定的に体験してほしかったから
・子供が「不安ベース」「不信ベース」である場合、たいてい親が「不安ベース」「不信ベース」
←親個人ではなく夫婦関係
→「階級的ハビトゥス」(ピエール・ブルデュー)「ハイパー・メリトクラシー」(i.e.習得によって挽回できない能力をめぐる能力主義)
←将来的な危険ではなく、現在すでに起きている
→親が否定的オーラを持っていても「重要な他者」が周囲にいて子どもを肯定的オーラで包摂してくれるようであれば「生まれの偶然」によって割りを食わなくて済む
この章は教育近辺の問題を取り上げているが、前の章との関連もある。
つまりコミュニケーションのフラット化、<生活世界>の空洞化という概念を
引き継いでいるというか、それが起こす具体的な問題として多くを扱っている。
一方で二章で新たに出てきた概念として「感染」、「ミメーシス」がある。
個人的にはこの一冊の中で最も感銘を受けたところかもしれない。
例えば<システム>と<生活世界>の関係についての話は社会学的で、
そういう考え方があるのか、全然知らなかったなあと普通に興味を持った。
しかしこの「感染」については、あっこれ知ってるとまず思った。
そして、知ってたけどこの概念に名前つけてなかったなあと悔しくなった。
知らなかったことを初めて知るのも楽しいけれど、「こういうの知ってたけどなあ、
改めて名前つけてくれてありがとう」というような再発見に私は痺れる。
また、実際にこの後の議論のキーコンセプトの一つでもある。
そしてだんだんと議論の方向性を、それは「社会的」なのかという社会化という主張、
あるいはエリートというトピックに親和性を高めて三章以降の展開に滑らかに接続する。
近日更新